「見せない写真を撮る」ということ。


心に引っかかっていた新聞記事をようやく読み返してみた。

9月30日(日)の日経新聞の最終32ページの文化面に掲載された

写真家・長島有里枝さんの「見せない写真を撮る」というタイトルのエッセイだ。

 

美大ではない普通大学の文系コースで写真を教えていた学生達が口にしていた

「インスタ」なるものを知っておいた方がよさそうだと思い、始めたそうだ。

そうすると、どこにでも持ち歩いていたフィルムカメラの代りに、

スマホのカメラ機能を使うことが増え、自身の写真に向き会う態度が変わったのだと。

 

「フィルムカメラでは、生活する中で偶然出会い、心動かされたものを撮っているに対し、

スマホのカメラ機能では「いいね」がもらえそうなだと思ったものを撮っている。

つまり、同じ人間が「写真」を撮っていても、撮影も目的も撮り方も全く違うのだ」

 

あとでインスタにあげようという魂胆が頭をもたげ始め、

写真家としての危機感を覚えたそうだ。

自身がシングルマザーとして孤独のうちに子育てしていたときにインスタがあれば、

迷わずインスタをしていた気がする、ともいう。

インスタは、写真を加工することでイメージを操作・編集することができる、

いわゆる広告的なツールなのである。「インスタ映え」とは「盛った自分(がいるシーン)を

見て欲しい!」という欲求の表れということだろう。

 

「インスタグラムが承認を得やすい(「いいね」やフォロワーを増やせる)自己を

構築しがちだという意味でも広告的であるのに対し、

私の慣れ親しんだ表現には、承認されなくてもいいという「開き直り」がある気がする」

 

この「開き直り」こそ、写真家として「写真」を撮る長島さんの矜持なのだ。

そして、人間としての、女性としての、アーティストとしての立ち位置なのだ。

 

「褒められないからといって存在価値が低いわけではないと言う信念だ。

インスタに慣れ親しんだ学生に伝えたいのはそのような写真のありかた、

他人の共感が得られるあなたである必要は必ずしもない、ということかもしれない」と

結んでいる。

 

ここで、思わずひざをポンとたたきたくなる。人に気に入られる必要など、ないのだ。

別にムリして自慢しなくてもいいじゃない。

インスタなどのSNSの投稿より、「素のあなた」の方がよっぽどステキですよ、

といってあげたい(笑)。

※といいつつ、投稿するだびに、「いいね」が少ないとがっかりし、

ちょっと多いと嬉がったりするオヤジ(=久坊)がいたりするから、

SNSって、困ったもんだ。。